自己紹介でも触れたのですが、私の中学の部活動は合唱部でした。
理由は、「親から何か必ず部活動はやりなさい」と言われていたのと、
当時から運動が大の苦手でからっきしだったこと。
小学校の音楽の歌の時間はとても好きでいつも大きな声で歌っていたら先生に褒められて、
その気になっていたこと。
小学校高学年って何かお年頃であんまり歌わない子は結構いたなあ。そんな中、元気に歌ってたら褒められた。それだけの話です。
中学合唱部時代
声変りが遅くて、ボーイソプラノで1年間、その後声変わりしてテノール(男性高音域)でした。
地元の中ではそこそこ活動が盛んで、コンクールで上位入賞とかして。
3年生が引退してから部長になって、色々あってやめてまた戻ってとかしながら卒業。
その後、母校は自分が3年生ときから来た先生の指導で大躍進。全国大会の常連となり、一度日本一にもなったのかな。とにかくすごかった。
高校・大学時代
高校に合唱部がなかったので、中学のOBで結成している合唱団に所属。
活動はそんなに活発ではなくて、年間は活動しているものの、6月と10月に行われる市民祭と3月に中学校と合同で行うコンサートくらいが活動内容。
社会人時代(小売)
地元の小売業に就職。合唱団の練習に参加することが難しくなる。小売業のため、土日は基本的に仕事だし夜も遅かった。
何より、仕事を覚えることに精いっぱいだったのが最大の理由。
27歳の頃、少し仕事に余裕が出てきたときに、「そういえばしばらく歌ってないなあ。」と漠然と思い始める。
そこで、いつ合唱活動を再開してもいいように声だけは出せるようにしておこうと思いったって、ホットペッパーの「ボイストレーニングします」というのを見つけていってみる。
するとそこは・・・
鏡張りの部屋にスレンダーダンディーなおひげの講師の方が・・・。
そして、私よりもずいぶん若い20歳前後と思われる男女が集まり、
「ワン!ツー!ワン!ツー!」と踊り始めたではないか!
どうやら、完全に来る場所を間違ったらしい。そのあと、グループでボイストレーニングレッスンもあったのですが、
なにか・・・違う。完全に合唱の発声の自分は浮いている。なんかみんなかっこいいし、歌い方も明らかにマイクを意識した発声なのです。
でも、せっかく申し込んだし・・・と思いながら通いましたが、結局一か月で辞めてしまう。
んー、ちょっと間違った。でも、声は出せるようにしておきたいな・・・。
そこで頭の中にあるメロディが!ドレミファソーラファミ・レ・ド♪
これだ!ヤマハだ!なんかよくわからないけど、ヤマハってクラシックな音楽やってそうだからここだ。
さっそく、「ヤマハ大人から始める音楽教室」に電話してみる。
そこで受付の方が電話に出られて、「ポップスとクラシックどちらかお好みはありますか?」
愚問だ。俺は、ついこないだまだ微妙な思いをしてきたんだぞ!「クラシックで!」
そして、自分は発声のために月2回の個人レッスンのため音楽教室に通うことに。
ヤマハ音楽教室時代
そこで、出会った先生は音楽大学声楽科卒の先生。自分と同い年?!同い年で人に教えてるってすごいなあ。さっそく、声を聴いてもらって発声してアドバイスしてもらって。
これこれ!これだよ、俺が求めていたものは。何度か通ううちに、歌も歌いましょうということに。
なに?歌を歌えだと。一人で歌を歌えだとー。何を言ってるのか先生は。
自分は発声したくて来てるのに、一人で歌とか超恥ずかしいじゃないか。(カラオケはまた別)
でも、先生のすすめで歌ってみることに。「はーるーこーおーじょーおーのー」荒城の月ってやつです。
そして、次に先生が持ってきたものは「イタリア古典歌曲集」。
?!
いや、俺日本人ですけど。そもそも古典の成績悪かったですけど。自国の古典も理解できないのに、外国の古典とはこれ如何に。しかも一人で歌えとか。いろんな意味でハードルが高すぎる!それでも一応やってみる。
んー、イタリア語かあ。あ、でも基本ローマ字読なのね。それは助かる。ちょっとルールが違うのもあるけど、
それはぜいぜい、「へ」なのに「え」って読むことがある日本語とかとそんなに変わらない。
全部、フリガナ書いてしまいえばこっちのものだし。うん、何とかなるんじゃない。
最初にやった曲「Caro mio ben カロ・ミオ・ベン」(いとしい女よ)
イタリアでは誰もが知ってる曲らしいですよ。日本で言う「ふるさと」みたいなものなのかしら。全然違ったらごめんなさい。
他にも4~5曲のイタリアの曲を歌うように。
そんなこんなで、1~2年ほどたったある日のこと。「歌の発表会があるので出てみませんか?」
ぬあんだとう!今度は人前で一人で歌えと!冗談も休み休みにしてほしいもんです。合唱畑の私が、そんなことできるわけがない。
でも、先生がせっかくなので勧めるので出てみることに。
歌った曲は最初にやったイタリアの曲、「カロ・ミオ・ベン」なんか発表会に出たら、いろんな人に褒められて浮かれた。
そして、先生が所属するオペラ団体の指揮者先生もそこにいて、「いい声してるよね。オペラに出てみませんか?」
?!
何言ってるんだろうこの先生は。そもそもオペラってなんだよ。なんとなーくわかるぞ。歌って演技するやつだろう。そうだ間違いない。
それに俺が出るだと?そもそも見たことないものに出るってどうゆうことだ。そんなわけないだろう。これにはさすがに自分の先生も難色を示す。
「え?だって、楽譜も読めないですし、さすがにそれは」
その通りだ。自分は楽譜が読めない。動物的カンで歌っているだけだ(もちろん、音をとってもらう)。だけどその先生は、「そこは何とかなるでしょ。」
とのこと。
ふーむ、何とかなるのかー。何とかなるのか?!とてもなりそうな気はしないが。でも、こんなチャンス滅多にない。オペラ?に出られるなんて。そこで、結局合唱メンバーとして出してもらうことになりました。
演目は札幌室内歌劇場公演「月を盗んだ話」。
夜は真っ暗で不便だから、隣の村から月を盗んできた4人の若者。
でも若者が死ぬときに月は俺らのもんだから棺桶に入れてくれと、1/4ずつ持ってって死んでしまう。村は再び真っ暗。
死者の世界では、月を持ってきた若者がどんちゃん騒ぎ。
神様が死者の世界に来て「うるせーぞ、死人は寝てろー」と、月を地上に戻す。
って話です。はしょりすぎか?
そして次の年は合唱ではなく役付きで出していただくことに。
公演が終わった後、音楽監督の先生から「うちの団体に入らないか」とお話が。
なになに、話がどんどんおかしくなっている。俺がオペラ団体に所属するってこと?
よくわからん、どうゆうことだ。でもまあ、せっかく話をもらったわけだしこんな機会ないよね。
と、所属することに。
イタリア修業時代
そんなこんなで、札幌室内歌劇場のメンバーとなった私。ただ、もちろん就職した小売業も続けていました。
ある日、職場に保険のセールスさんが営業に来ました。入院保険の勧誘です。
ちょうど、その時に入院保険を探していた私は、「ちょうどよかったー、入りたかったんです。」と早速手続きに。
オペラを始めたことを何かと人に話したい私は、「趣味でオペラやっててー」などベラベラしゃべりだすと、
「奇遇ですねー、私の息子も声楽やってて連絡取り合ってみたら面白いんじゃないですか?」とのこと。
そんな偶然ってある?
連絡先をうかがったので「お父さんから紹介いただきましたー」と連絡してみると、息子さんから
「ちょうど来月イタリアから先生がレッスンに来日するんですよー。よかったら受けてみませんか?」
?!
そんな偶然ってあるの?イタリアの先生かー。なんかすごそうだし面白そうだなー。
と、レッスンを受けてみることに。するとそのイタリアの先生がレッスンの後に、
「続ぎはイタリアでね!」とイタリアンジョークをかましてきた。今思えば、絶対ジョークだったはず。
だけど。当時の自分はおだっていたのかどうゆうわけか、「そっかー続きはイタリアなのかー」と納得。
そして、会社に退職届を提出。
「は?急にやめるってどうゆうこと」
「イタリアで声楽を勉強しようと思いまして」
「え?声楽って何。お前、たしか一般大学卒だよね、そうゆうのって専門的にやってる人が行くんじゃないの」
「でもやりたくなっちゃって」
「意思は固いんだな」
「はい」
「そうか、わかった。今までもやめていく色んな奴と話したが、特に目標もなくいやになったとか、なんとなくとかは慰留してきたけど、夢を持ってやめていこうとするやつを引き留めれたことはないんだ。そんなに意思が固いなら頑張れ」
「はい、今まで大変お世話になりました」
この上司、今思ってもかっこいいなあ。
ということで会社を辞めることにしてイタリアの先生に連絡。
すると、驚いたリアクションが。まさか本当に来るとは思わなかったのでしょう。
そこで、イタリアで半年間みっちり、レッスンを受けて、日本に帰国。
イタリアでの生活はどこかで機会があればご紹介させていただきたいです。
帰国、現在に至る
そして、帰国。歌活動だけで生きていくことは困難で今は他の会社に再就職して、
働きながら音楽を続けています。そんな中、ランニングにはまったり、歌ったり。
そんな生活です。まとまりなくてすみません。
写真は札幌コンサートホールキタラで札幌交響楽団と共演させていただいた時のもの。
まさか、歌を始めたときにはプロのオーケストラと共演できるなんて思わなかったなあ。